いちょうの木を見た。それは枯れていた。もしくは枯れかけていた。そしたら晴天だし、すでに沈んでいる太陽の光が来ていた。圧倒的にそこに有るからよく見た。なぜか目が離せなくなって、ドキドキしました。葉は動かない。一枚ずつが確かに有るんですね。今の季節は葉の色がきれいですねと、ありきたりな会話でごまかしたりする。ありきたりな返事にも、奥深い何かが隠されているかもしれない。
2006年12月7日木曜日
2006年12月5日火曜日
イシボリオット大会やります!
このたびは、突然「イシボリオット大会」をやりますからよろしくご参加ください。(要予約)
■日時 2006年12月24日曜日
14時から17時半くらいまで
■場所 「俺道場1階右」つまりぼくんち
京王井の頭線「永福町」駅から徒歩7分14秒
■内容 石を彫ってハンコを作ろうよ!
材料とか道具はぼくが用意します。
大きめの石に彫りましょう。
■参加費 1000円です。
■いいわけ
ウチは六畳ですから、4、5人が限度と思われます。でもそんなに集まるかな。クリスマス前だし。あ! クリスマス前だ、、。、
ご予約は「チケットぴあ」ではなく、ぼくに連絡を下さい。
kiborio@yahoo.co.jp
です。
よろしくおねがいします。
(・_・)ドキドキ。
2006年12月3日日曜日
スイッチはあと3個あります
よくお金のために作るのは、純粋じゃないみたいに言う人がいるけれど、ぼくはそう思わない。売るために絵や音楽を作るのは良くないことなのかな、その人にとっては。 違うなきっと。売るために他人の真似をしちゃうのが恥ずかしくないのか?という事なんだと思います。 ええそうです。ああいうのが売れてるからぼくもそうしよう、という精神はうざい消えてくれと思います。なぜならばなんとなくです。
でも、商品と考えればそれも良いのかもしれませんね。売れさえすればそれでいいのでしょう。そういう才能も貴重なものですから、それが出来る人はやったらいいと思います。
ポストカードは良く売れるそうです。でもぼくはそういうのを作りません。だってポストカード屋さんに成りたいんじゃないから。
以前、ぼくは名刺を手書きしていた事がありました。そしたら手書きだとちゃんと扱ってくれないらしい。でもそういうのが分からない人とは付き合う気がありませんと、その時のぼくは思いました。
絵の価値を決めれる人は本当に少ないです(若い人は自由に価値を見出している様に見えますが)。
その絵がどのように扱われているかに従うのです、ほとんどの人が。そして扱われているのと同じ分だけ価値を見出すようです。
お昼のAMを聞いていると、悩み相談をやっていた。
悩む人と対峙する時は、その人が解決したいのか、それとも話しを聞いて欲しいだけなのかを、見分けないと痛い目にあいます。もし話しを聞いて欲しいだけの人に対して、本気になって解決策を提案しても、のれんに腕押しとはこの事か、まったく聞く耳持たずでしょう。
たいていの場合、解決にはリスクが付きまといます。悩み人本人のマイナス面を直視させる必要が多々ありそうですから。話しを聞いて欲しいだけの人に、そんなものを見せても受け入れないばかりか逆恨みをもらいますよ。
夜はどうして青いんだろう
夜はどうして青いんだろう。月の光が青いのかな。でも曇りの日の夜も青いですね。室内はタングステンの灯かり、それはオレンジ色。そこから外に出ると鮮やかな青い世界が待っているものです。ぼくは夜の青い世界が大好きです。その暗くて鮮やかな青は汚いものを隠して見えなくする。
よくケツが青いと言いますが、あれは赤ちゃんにみられる蒙古班のことを指していますね。蒙古というのはモンゴルのことですから、モンゴロイド特有の現象のようです。中国人(漢民族)には見られない様です。うんうん、そうだろうなと妙に納得してしまいました。
モンゴルと言えば、現存する言語で日本語とモンゴル語のみが縦書きをするようです。(ぼくの知ってる限りでは)。昔、モンゴルが社会主義国に支配されていた時に、モンゴル語は、キリル文字で表記する様になっていました。最近では、もともとのモンゴル文字復興の動きもあるようですが、うまく行かないみたいです。
縦書きと言えば、世界の言語の中には、書く時は縦で、読む時は横にするとか、あるみたいですね。身近なところでは英語なんか書く時斜めですね。
アフリカには、言葉があるのに文字がないという言語がたくさんありますから、記録がどのように行われたのか不思議です。もしかして記録はしないのかもしれませんね。そういえば、アイヌの言葉もたしか文字を持ちません。どうだったかな。たしかそうです。
あ、沖縄はどうなんだろう。日本に支配される前は、文字はどうしていたのだろう。漢字かなぁ。気になります。メンソーレとかカタカナなわけないじゃん!中国がウイグルやチベットを支配しているように、日本が琉球やアイヌを支配しちゃったのだろうか。まったく知りません。今、書いていて気になりました。
イスラエルのヒーブル文字は、横書きで右から書いて右から読むのです。そしてイスラエル人は西洋音楽に長けていますから、五線譜を使うんです。五線譜は左から書きますよね。そこで、五線譜の下に歌詞を書くと、どうなるでしょう。考えただけでワクワクしませんか?
中国も昔は縦書きをした様です。そして、いろいろな草行書をみていると、まったくひらがなと同じ形のもを見つけるでしょう。ひらがなは略式の行書なんだなと思いましたぼくは。分化革命以降、中国では略式の漢字を使っています。日本や台湾の漢字は、中国では老人にしか通じないです(画数の少ない漢字はそのままの様ですが)。漢字はたくさん種類があるので、覚える労力を他の学問に使って学力の底上げをしたかったのでしょう。これを、文字文化の放棄として批判するのは簡単だけれど、ひらがなやカタカナが生まれた経歴を考えると、批判するのにも一歩ひるみますぼくは。だって画数の多い漢字は日本でもどんどん簡略化されているでしょう。
ハングル文字の発音システムも合理的で興味深いです。ハングル文字はたまに括弧付きで漢字で意味を補っていますよね。キット ゼンブカタカナデ カカレテイルカラ イミ(意味) ヲオギナワナイト ヨミニクインダロウナ トオモイマシタボクハ。
2006年12月2日土曜日
まんがをかいたこと
いぜん、まんがを描いていました。何年も前です。でもここ1年くらいで、何回かその頃のマンガのコマを使う仕事をしました。灰汁のCDジャケと12月23日のEARのチラシもそうです。そのマンガは当時、洋画用紙にペンとインクで描いていました。(写真にしてもそうだけど、ぼくの平面ものはいつもモノトーンだなと思いました)
マンガといっても主人公や背景とかそういうんじゃないんで、漫画家さんにはそんなの漫画じゃないって怒られそうなしろものです。そう、それもどうだっていいことです。マンガだろうが、違うと言われようが、ぼくがそれを作りたくて作ったという事実があるだけです。ただマンガのフォーマットを流用しているので便宜的にマンガという言葉を使っているだけなので、否定されてもまったく意に介しません。どうでもいいこととはそういうことなのです。
マンガであろうとする必要は全く無いです。100人中100人がマンガと思える作品を作る、という義務が発生しそうになったらお断りですね。
いぜん、写真をやってたころ、ぼくの個展に来て「アバンギャルドっていうのはねぇ、、」と1時間近く講釈した後、「アバンギャルドをわかってないんだよきみは!」と言った御人がいたが、ぼくは一言もそんな言葉を使っていないし、そんなつもりも無いんだけどな、と思いましたが、その時あきれてモノも言えないというのを経験しました。つまり退屈でした。
赤地の上の灰色は青っぽくみえますからね。
そして、そのまんがが、宣紙と墨になって、ぼくの手に帰ってきました、感覚が。すでに漫画のフォーマットではないので今度はなんて呼ぼうかな。
これオモシロイ。筆で出来ると思わなかった。やってみるもんです。もっと進化させていつかものにしたいな。