2013年2月2日土曜日

高円寺・美術鑑賞部

きのう高円寺の友だちと絵画鑑賞会をした。
京橋にあるブリジストン美術館に行ってから、居酒屋に行こうという企画だった。

それはインチキ手回しオルガンミュージシャンのオグラさんが絵に興味を持ちはじめたのがきっかけだった。オグラさんはアートのことはなんにも興味がなかったけれど、なにかのきっかけでベンシャーン展を見たときに心が動いたっぽい。それで他の人はどういう感じで絵をみるんだろうと彼は思った。美術館の中で見るオグラさんはこどもみたいな顔をしていた。慣れない雰囲気の中で緊張していたんだと思う。

ぼくが何年も前にシャガール展に行った時の衝撃的な出来事を思い出した。
ぼくの近くにいた男女カップルの男が、ひとつの絵を指して、これは間違えた上に何度も書き直しているから絵の具がぼこぼこしているのだろうかと女に言った。女は恥ずかしいからそんな事を言わないでほしいとヒソヒソ言った。すごくそれがぼくには衝撃だったんだけど、たぶんその女の考えではシャガールくらいの巨匠は描くことで間違いなんかしないだろうし、そんなことも知らない男がまわりの人に見下されるのじゃないかと心配、なおかつ自分もそんな男と一緒にいる美術を知らない人っていう他者の目が気になってしかたがないのだと、そう女は考えているのだとその時ぼくは思った。なんて残念な考え方だろう。もしかしたら違うことかもしれないけれども。

たぶん自分が絵を見て思った事が作者の意図や事実と合っているかどうかが重要なことになってしまっている人が多いのは、日本の教育が正解を見つける事に重点をおいてるからだとおもう。問を作ることよりも、作られた問の正解をさがすことをあたりまえにやらされている。その正解は作者(学校の先生とか)が握っていてこどもたちは先生の顔色を伺って正解をさがすのだ。そういう教育なのかもしれない。ぼくは同じ意味で推理小説が嫌いだ。正解を作者が握っていて、その正解をあれこれ想像して、ぼくの想像を超えたり超えなかったりする正解が用意されている。超えたとしてもそれはぼくにはとてもたいくつだ。

つまり空を見てなにを感じるかが完全に個人の自由なのと同じように、世に放たれた美術作品をみて何を感じようと好きにすればいい。それを言葉にして友人に伝えてみたらいい。感じたことと言葉のあいだには差があって、言葉にすればするほど遠くなったりするけれど、そんなことは気にすることない。感じたことを正確につたえることなんてもとより不可能なのだから。ラーメン屋の好みと大差ない。

という少しの心配を抱きつつも、みんな結局は自由に絵を楽しむんだ。すごくいい。
絵や音楽や、つくること、見る事、聴く事、いろんな話しをした、朝まで。
次は誰かひとりの作品展をみにいくか、古典をみにいくか、たのしい。
ゲルハルトリヒターとか行ったらおもしろそうだな。