東京都現代美術館でやってる「音楽とアート」を見てきた。
「音楽から派生したアート」が主な展示だったと感じた。新しさは感じなかった。
池田亮司はかっこいい。池の陶器のやつもよい。
木の年輪のレコードのやつは期待しただけにひどかった80年代かと思った。80年代でもまあ現代か、とは思うけれども。。作曲っていろんな手法があるんだろうけど、今回の展示会のほぼ全部がいわゆるチャンスオペレーションって言ってジョンケージが有名にしたあの手法なのだろうか。世の中のいろんなものを音の高さと音量、長さなどに変換して作曲する手法なんだけど、その変換の仕方とか素材とかによって、いい感じに美しくなったり、つまり人間の耳には心地良い感じに空気の振動がレイアウトされたりするよね。年輪のやつは素材として木をLPレコード状に輪切りにしたものを使ったんだけど、それをリニアでピアノの音に変換していて残念だった。譜面にして奏者が演奏してライブなら見たかったな。想像したのは年輪をゴリゴリ削る針の音だったけど。そういうのを聴きたかったんだ。今の時代でMIDIかなんか知らないけどピアノの音に変換したのをそのまま聴かされても残念な気持ちにしかならないんじゃないかな。そこのヘッドホンに列ができて二人くらい待ったのだけど、みんなはどう思ったんだろう。おれはすごく残念だったよ。木はただのスイッチとして扱われたんだよ。それだったらもっとシンプルに電子音とかのほうがいいよ、なんでピアノの音にしちゃんたんだろう。生のピアノの弦にはぜったいにかなわないのに。
そう言う意味で大友良英の限定的アンサンブルはぼく好みだった。ゴリゴリだった。ロックだった、というべきか。
ジョンケージは印刷物だった。
あるキャプションの前に20人規模の行列ができてるのがきもちわるかった。作品よりもキャプションを読む大衆。
池田亮司のキャプションだけ読んだら歯が浮くような内容だった。本人が書いたとは思わない事にした。
常設展示に高木正勝は無かったしピピロッティリストも美しくなかった。
でも観といたほうがいい展示だとおもった。これらのやり方に自分なりの考えを持つためにも。
作曲は音のレイアウトなんだなって改めておもった。チャンスの割合とか比率だけコントロールしてるのが今回多かった気がするのはそういうコンセプトだったのだろうか、よく知らないで行った。キャプションはほとんど読んでないのでやっぱり知らないのだけれど。
こういうのはまったく受け付けない人もいるんだろうなと思った。
こういうことをこの規模でやれるのは素敵なことだと思った。マイケルガーデナーや阿佐ヶ谷のプールでみたインスタレーションを思い出した。マイケル元気かなあ。サチコMに楽曲を提供したいと言ってたな10年くらい前かな。
2013年1月27日日曜日
音楽とアート