石、書かれた文字
100枚の扉
四角の中の女と博士
赤いドレスの魚
2013年4月29日月曜日
2013年4月17日水曜日
メモ
■疑問1
言葉は何かを伝えるか?
■疑問2
言葉とはなにか
■疑問3
伝えるとはどういうことか
■疑問2への仮説1
世界は記号でできてる
言葉はすべて記号だ
■疑問2への仮説2
音と意味の違い
音は言葉にできない
コップは言葉にてきる
コップには名前をつけることができる
音に名前をつけてもそれは説明でしかない
「にゃー」は音であるが言葉にできる
「盛りのついた猫の鳴き声」が言葉にできないのは、人の声帯で再現不可能だから
(きぼ推測による注:文字でも表記の限界を超えてるから)
■疑問2への仮説2への疑問
言葉で説明することと言葉の意味の違いだろうか
ぼくはコップと音の違いがわからない
なぜ音を言葉にするときだけ模倣再現しないと言葉になったとは言えないのだろうか
言葉にしたと言うには再現する必要があるのならば、コップを再現しないとコップを言葉にしたことにはならないのではないだろうか
コップと音は何が違うのだろう
どこまでがコップでどこからがお茶碗だろう
■疑問2への仮説1への疑問(これ疑問1とは関係がなさそうなので今は無視)
世界は記号である前にあるのか、それとも記号だからあるのか
■疑問3への仮説1
情報を他者に渡すこと
言葉に関して言えば、意味を他者に渡すこと
■疑問3への仮説1への疑問1
言葉は意味を他者に渡しているだろうか
つまり言葉が示すものそのものを他者に渡しているだろうか
■疑問3への仮説1への疑問1への仮説1
という疑問は、空の青が他者にどう見えているか伝えることが可能だろうか、と同じ疑問だろうか
このへんでこんがらがる
2013年4月15日月曜日
言葉に関するメモ
「意味の純度」は間違った表記だった。
なぜなら意味は純度100%で意味だから。言葉の中にある意味の含有率のことを言いたかった。
そうなのだがそれも間違い。言葉に含まれる意味以外のものと思っていたものも別の言葉であった。
ということだ。
2013年4月3日水曜日
てちゅがく
wikiの「哲学」を読んだ。
それは、対象が決まっていない、そして対象を扱う方法も決まっていない、まさに「知を愛する」という原語直訳が似合うようだ。
ということは僕がやりたい哲学は方法がある程度限定されてる。基本的には論理を使いたい。だけど直感を信じたい。直感を論理的に分解あるいは説明しようとする行為でありたい。非論理的な[記述や発言]の羅列を哲学とは感じない。また歴史的な事実がそういった哲学にあまり必要ではないという直感がある。
時には論理が直感を覆すことになってあたらしい感覚を手に入れられそうになる。それがぼくに起こったのは、いままでに一度しかない。
歴史的な事実に関しては縄文時代以前の世界史つまり自然淘汰説と、その延長(現在を含む社会学など)には興味がある。
また、すべての哲学は大きな仮説の上になりたっているので、ひとつ以外のことを断定することはないと信じてる。そのひとつのことについては今は書かない。
以上のような言葉の集合が誤解しかうまないことが想像できるけれどそれはそれでかまわない。
ぼくは今よっぱらっている。
2013年4月2日火曜日
音楽とか趣味趣向
若い頃。まだいろんなことを知らなくて、つまりいろんなことが新鮮だったころに影響を受けたものって、実はたいしたことなくて自分が未熟だっただけだと思う。大人になっても若い頃のそういうのをずっと好きなことはしかたのないことで、個人的に懐かしい思い出としてとっておけばよい。同世代だったらそういう話しをして楽しむのも良いとおもう。だけどそれはあくまでも未熟なころの感性をひきずっているだけなので、他者にすすめられるモノも中にはあるかもしれないがすべてがそうだとは限らない。だからぼくは今も良い音楽や美術を探し続けたいし影響を受け続けたい。若い頃から、音楽や美術やつまり芸術の趣味が変わらないのはもしかしたら危険なことかもしれない。すでに完成されていた、という解釈もできるけれど、ただ単に感性を洗練することを怠っているだけかもしれない。とはいえ、まあ危険ではないよな。すきにすればいい。
意味の純度
>数学という言語を日本語や英語などの違う言語に基づく言葉で扱うこともある
英語をカタカナ表記するのと構図が似てる
上記に関することで、楽譜はどうだろう。
直筆の楽譜の筆跡みたいなものが演奏に与える影響はどれくらいなのだろうか。
そう考えるとやはりデジタル化で失う何かがありそうだ。
というのは主題からそれるのだが。
デジタル化によって意味の純度が高まりそうだ
その代わりに何かが失われる。
それを今のところ意図と呼ぶ事にする。