2007年1月31日水曜日

俺道場イシボリオット大会は空きがあります

・今週の日曜日(2月4日)14時から
・参加費 1000円
・場所  アトリエ「1階右」(井の頭線永福町駅6分)

事前にご予約をお願いします。
kiborio@yahoo.co.jp
メールか、ブログに書き込むか、あるいは何らかの方法でぼくに連絡をください。

イシボリオット大会とは、石を彫ってハンコを作ろうよ!ということです。材料とか道具はぼくが用意します。手ぶらで来て下さい。
ぼくは先生ではないので教える事はしませんけれど、知ってる事は伝えられるとよいです。だから篆刻教室じゃなくてイシボリオット大会なのですよ!

■俺道場では講師や企画を募集しています。
たとえば今後の予定として「ウルドゥー語を書こうよ大会」や「絵画品評大会with酒」を準備中です。

細江英公+土方巽

先日、恵比寿の写真美術館で細江英公が土方巽を撮った写真を見た。前に写真の本で見たときよりも、深く心に入ってきた。土方巽は美しい。あんな美しい男がいたのかと思った。そしてきっとやんちゃでおもしろい人だろうなと思った。彼が畑仕事してる人の輪に入ってる写真が印象深い。ぼくはやっと写真を普通に見れるようになってきた。写真を辞めてから、あまり写真を見たくは無かった。良い写真展を見たことが無いからか。今のぼくの感受性では写真表現を見るのは、ものによっては心地良い。見方が変わって来た。ひねくれないで見れるのがうれしいです。

2007年1月30日火曜日

きょうのぼくは唯一の確信事を書く

いろんな事に対して自分の意見を持ちたいです。ですから、テレビ等の大衆向けメディアは一切信用しません。ぼくが確信しているのは、ただひとつです。「我思う故に無ではない」。ということです。それ以上の事は、ぼくには不確定です。でも日常の会話とかこのブログでは、それ以上のほとんどの事を確定的かつ断定的に会話します。その方が人間関係の摩擦が少なく社会に馴染みやすいです。唯一の確信以外の事でも実生活において確信できない事を無視するか、あるいは嘘をついた方が身のためですね。たぶん世のニートと言われる人達は、そういう事を無視あるいは嘘つけなくて社会に馴染めないのかもしれないなと思ったことがあります。いいかげんになれればいいのにな。どうでもいいんだよそんなことは。たぶん。

唯一の確信事についてもう少し詳しく書きます。
「我思う故に我在り」は、なんだかダジャレみたいです。たとえば「我思わないだけども我在り」が成り立ちますよ。いや、それはどうか分からないな。
「無」をあらためてめて定義します。無とは、なんにも無いことです。時間も空間も無いです。よく、中途半端な「ほぼ無」と「無」をごっちゃに考えてる人がいます。そういう人は、「無」がゆらぐとか言います。「ゆらぎ」がキーワードになっているようです。でも「無」はゆらげないんですよ。なんにもないから。って説明をすると彼らは、「無の存在自体がゆらぐんです」とか言いやがる。無が存在するとはいかに!ああ、言葉遊びに付き合ってただけだったのかとその時分かりました。もう少し言葉遊びに付き合うならば「無は無い」で締めくくれそうです。

!!!完全に話しがそれました。悲しいくらい低脳です私。そう、つまり「無」とは、なんにも無いことという意味で使わせて下さい今の所は。
そうすると結論。「無」ならば我が思う事は出来ないのですが我は思うことが出来るので無ではないです。
その先に「在る」とか「我」とかを定義していってややこしい理論を作れそうではありますが、ぼくは馬鹿画伯なのでこの最初の階段しか昇れませんでした。いつか、もう一段くらい昇れるのかもしれないです。あるいは途中の階段はすっ飛ばして、経験できるこの世の中で絵を描いて生きてゆけたらこの上ないです。
(。人。)おっぱい

2007年1月29日月曜日

ヨロモ覚

ご存知のように、地球以外の文明を持つ生命体はヨロモ覚を持っています。
地球人はもともとヨロモ覚に障害をもって生まれてきますから、その感覚が無いことに慣れているので、とくに不便を感じることは無いようですね。だから特に地球ではヨロモ覚についての研究もされていないようです。ヨロモ覚を欲しがる人もいないみたいです。
でも今年になって、かに星雲あたりの医療技術により、地球人にもヨロモ覚を持たせることが出来るということが分かったようですよ。それはいったいどんな感覚なんだろう。それを得た人が得ていない人にどのように説明するのだろう。

ということをぼんやり考える時間は贅沢で優雅だなとおもいましたぼくは。

2007年1月26日金曜日

きょうのぼくは唯心論者です。

この世界は心が思い描いている夢みたいなものです。
つまり、この肉体とか、このモニター画面とか、街とか、さっき食べたうどんなど、いっさいの物は、存在していないのです。
ここで当然ながら、存在という言葉がなにを表わすのか、気になりますよね。たとえば、あなたが寝ている時に夢を体験しますよね。その夢の中で触った地面は存在していますか?それを存在していると表現するのなら、この世界も存在していると表現されても構わないですが、ぼくはそうは思いません。夢のなかで触れたとしても、存在していないと思います。でも触れたその瞬間は確実に存在しているんですよね。
つまり、唯心論は存在の定義に終始してしまいそうです。

2007年1月25日木曜日

きょうのぼくは唯物論者です

この世界には物しかないです。
つまり心とか意識とか、体と別にあると思われがちなものは、すべて物理的に起こっている現象にすぎません。意識が体と別にあると思うのは自由ですが証明できませんよね。いろんな説があるだけで証明といっても前提に仮説がたっぷりですよ。
だからといってそれを否定するような証拠もないんです。だからどっちを主張しても関係無いしどうでもいいんですけど、どっちかといえば物しかないの考え方のほうが、めんどくさくなくて好きです。それ意外の説は、想像力を刺激されて楽しいですから、そのような話しを聞くのは大好きです。けれども、いまいち実感を伴いません。