2013年8月22日木曜日

旅行の記録 石巻

こないだえびすさんと東北のある島に泳ぎに行った。それは今年やっと片付けができたビーチだった。大津波のときにいろいろガレキとかが大変だったんだとおもう。田舎の海だからほとんど人がいなくて、居ても家族連れとかなと予想して行ったのだけど、意外にも若者が多くてしかも女子ビキニ率98パーセントくらいだった。肉眼で見るそれはすごくよかった。えびすさんとしばらく眺めた。それから遊泳区域の長辺を5往復クロールした。たぶん800メートルくらいだとおもう。それからチンクイ虫におそわれた。水着に30匹くらい付いてて、取ろうとしても取れなくてシャクトリムシみたいにうねるのだった。ぼくらは焼きそばを食べてビールを飲んだ。それからTシャツを着て島を散歩した。そしたら港が崩れているのをみつけた。そこはコンクリートの床が45°に倒れたりしていて、ガレキが無いところには砂が集まってビーチになっていた。ぼくらはそこで泳いだ。空を向いてぷかぷか浮かんでいると海底の小石が動く音だろうかパチパチ聴こえた。ぼくは競泳用のメガネを外して空を見た。青かった。

北上小学校という所の外壁を塗った。それは橋浦小学校という名前だったところだけど、いくつかの小学校が集まって名前も変わった。橋浦小学校のときにドアを塗ったことがある。そのときは雪が降ってたことを思い出した。あのときのみんな元気かな。えびすさんはプール掃除もしたらしい。


読書感想文 本と怠け者・荻原魚雷

魚雷さんの本を数年前に買った。そのとき読んでみて数ページしか読めなかった。なぜなら人の名前がたくさんでてきて覚えられないし、作品の名前もたくさん出てきて覚えられない。そのうえ注釈も含んだひとつの名詞句がぼくには長過ぎたのだった。
そういうわけで二、三年寝かせておいたのだけど、こないだ魚雷さんとペリカン時代っていうバーで会って話したときに文章をつくることの秘密を聞いて改めて読んでみる気になった。そのようにして読み始めてみたならば、これはすげえ面白い。半分はカズマクラの話しでもう半分はぼくの話しだった。そう思った。つまり半分は作ることの話しだった。ぼくは「作る事のはなし」をするのが好きだ。それは時代や世代や人種や性別を関係なくする。ここで何を関係なくするかということでぼくがあげてるいくつかは、つまりぼくが普段意識している或いは無意識している差別なのだなと今思った。ぼくはもう魚雷さんをぎょらりんとは呼べない。すばらしい。
よぶかもしれない。

2013年8月10日土曜日

感想文 幻影の書/ポール・オースター

オースターの幻影の書を読んだ。
罪と罰を思い出した。
つくることの話しは自発と依頼について。スポンサーがあってつくること。
最後の方はデヴィッドリンチのインタヴューも思い出した。
ヘクター・マンという映画監督で役者の話し。
オースターの名作、偶然の音楽は超えなかった。

きょうのポエム

決めることを決める方法の決め方はなにに基づくのだろうか
と言った詩人が王になったらシメサバを炙って廻転する義務と地平線
斧を持ってぼくは個人

2013年7月18日木曜日

日本国憲法第9条について

俺草案1
96条も9条は改正しないまま自衛隊も保持。そして9条を盾にして自衛隊は前線には立たない。侵略に対して自衛隊が動きやすい法律を9条に違憲のまま通す。徴兵制は無し。現行のように希望者で国境を守る。希望者が居なければ日本はいずれ他国の一部になる事を受け入れる。その前に、中国になるかアメリカになるかを国民に選ばせる。中国が選ばれればまずは国内からアメリカ軍の基地を排除。アメリカが選ばれれば基地を増やしTPPに全面参加。

俺草案2
96条を改正しないまま国民投票により9条を改正し自衛の為の武力を持てるようにする。自衛隊は日本軍に名前を変更。飽きた。
なんで日本は北朝鮮とか中国にお金をたくさんあげなくちゃいけないんだろう。彼らはどうやって日本から金をひっぱてるんだろう。武力でおどかしてるんだろうか。

ぼくがそうりだいじんになったらぜいきんのしゅるいをひとつにしてぜいむしょのじんけんひそせつやくします。おれそうあんいちをさいようします。

2013年7月14日日曜日

木下弦二

 こないだペリカン時代でげんじさんのライブをみたあとでげんじさんといっぱいお話しした。アートの話しをした。げんじさんは、音楽はもちろんすべての表現活動に興味があるように見える。いろんな事を考えていろんな影響を受けて音楽をつくって生きてる人だとおもった。その幅がもしかしたらぼくと似ているのかあるいはぼくの範囲を全部含んでいてぼくに合わせることができるんだとおもう。たのしかった。そのときから考えてることがある。
 ぼくはパレットみたいな絵を描きたいんだけど、そういうのはそう思った時点で意図的にはほぼ不可能だ。だから大きい絵を描くときに小さいキャンバスをパレットにしたら小さいけどパレットみたいな絵がひとつ出来上がるのじゃないかと思ってやってみたことがある。それらはたしかにパレットなので見えない法則があって読もうにも読めないけど知り得ない文法がぼくを引き込む絵になった。だけれども楽しくない。この気持ちはなんだろう。描きたい感じに描けたんだけど何かが違う。ということを最近ずっと考えてる。

2013年7月13日土曜日

感想文 きのこの会議 虻のおれい /夢野久作

写真家たかはしじゅんいちさんのバーベキュウ大会で夢野久作の短編がおもしろいという話しを聞いた。読んでみたくなって短編集をググっているうちにみつけた上記二つの超短編はネットで読めるのだった。

すばらしく簡潔な文で細部はぼくにゆだねられてる。ちくま文庫のグリム童話を思い出した。すばらしい文だった。もっと読みたい。ネットには他にもたくさん公開されているらしいのだが紙で読みたい。彼の短編を集めた夢野久作全集というのが13巻くらい出版されていたのだが絶版のようだ。書店によってはまだ在庫があるらしい。読めないとなるとさらに読みたくなる。

そういえばいつかパーティかなにかで会った或る人に、あなたはなんの人って訊いたらその人は紙を作ってるっていった。デジタルの紙だって。紙みたいに見えて書かれた内容がデジタルで変えられるらしい、新聞とか読めたりするらしい。ぼくはいつのまにそんな地点に到達してしまったのかとかなりびっくりしたのだが、それはあとで思えばKindleとかああいうのなんていうんだろう、それの事だったようだ。ぼくは紙にインクの印刷物と同じように扱えるのかと思ったのだった。電子ペーパーは畳めない。