2006年9月9日土曜日

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コンピューターで9439909490260457949163287317068通りの五七五を出し尽くしてしまえば、人の作る俳句は全てその中に含まれてしまう。 つまり感性とは作るチカラの事ではない。作ればいいというわけではない。という事を導きたかっただけです。どうやら誤解を与えるだけのようなので試しに補足してみます。

よくセンスがあるとかないとか言うし聞く。 センスは感度の事なのでその方向性に関しての要素は含まれていない。いくら感度が高くても、ぼくと違う方向への感度ならその感度に気がつかないだろうな。だからぼくの感度に気がつく人は つまりそういうこと。細く細く削っていきましょう。なにを削るのかは知る人ぞ知る人ぞ、虎子を得る。

「鍵のかかった部屋に閉じこめられているとする。部屋にはほとんど何もない。分厚い本が一冊ある。『ドアの下から中国語の文が差し入れられたらどうするか』という、あまり売れそうにないタイトルの本だ。」(サール)
という文を読んだ。

ヴォイニッチ手稿は、オリジナルの言語で書かれていると思う。
しかも内容はフィクションだ。と思う。
ぼくは中学生の時にオリジナルの文字を作った。その文字で机に何を書いてもぼく以外のだれにも読めない。という事を思いおこされた。