ぼくはこわかったんです想像力を使うことが。
それは使うといつかなくなるものだと思っていました。だから写真をはじめた。あれは想像力がなくてもできました。しかし、複製ができることと、表現したい自分は唯一でありたいこととの間で苦しかった。そして、しだいに暗室の作業にはまっていきカメラを使わない写真になった時あたりから、公園や駅でみる画家に嫉妬している自分をみつけた。写真はもはやカメラを使わずにフィルムを引っ掻いたり茹でたりしたものを暗室でプリントしていた。感光材はゼラチンで固定されているので、ゼラチンの融点を知った。
ぼくはある晴れた日に、カメラと過去の作品を全て捨てた。そして絵を描いた。というより塗った。ただ色を塗った。それで十分だった。いつからか、良い画面を作りたいとおもうようになった。そうすると人を描くのは楽だった。それは想像力をつかわない。自分の深い所を掘り起こす必要が無い。手先で描いても、それはよく褒められた。
でも今、ぼくはただ塗りたいのだ。ただ塗りたい。だれにもじゃまされずに塗りたい。
というかんじで塗った絵でーす↓これ
2010年8月28日土曜日
絵をかいたりすること
2010年8月25日水曜日
羽
ぼくはオサレさんだと言われる事があったり、昔はオサレさんだったのにと言われる事もあります。いつも、そこにある服を着ているだけなのですが、そこにある服は、ある人にとってはオサレで別のだれかにとってはオサレくない。しかし、サンダルが欲しいのだが買えないという事実はもしかしたらオサレくないかもしれない。
ネクタイをしなくてはいけないバイトをしたことがあって、ネクタイはものすごく不快だった。どうしてこんなものを付けさせるのか。ネクタイの存在自体が不要だ。くじゃくの羽と同じだろうか。くじゃくは羽を捨てられないけど、人間はネクタイを捨てられるんだからみんなでいっせいに捨てればいいのに。その時、付けたい人は付ければいい。
くじゃくの羽の補足。ぼくは進化論を受け入れてる上での話だけれど、生きる事には必要ないむしろマイナスにしかならない無駄に大きい羽を持つように進化するには理由があります。そういう羽は雄だけが持ってるんだけど、無駄なものをもってるのに生きているということが、生きること以外の余裕を持てるほどに強いからという理由で雌が選択して、羽を持っていない雄は逆に淘汰されていくという説です。もちろん雌が選ぶ時にそのように脳で考えているかどうかぼくは知らないけれど、それはここでは問題じゃなくてこのように選択していると考えるとつじつまが合いますということです。
2010年8月24日火曜日
2010年8月22日日曜日
旅行と旅
ぼくにとって旅と旅行は違うものだ。
貯金を切り崩して旅行をつづけるのは旅行だ。
旅とは、旅の中で旅をする為の条件を旅することそのものによって整えることができる状態だとおもう。つまり継続可能かどうかだとおもっています。
たとえば巡礼の旅は、その旅自体が旅を続けさせる条件を整えます。巡礼者に誰かが食料やお金をあげるのを見た事があります。
ぼくは旅行のほうが好きです。旅に出たことはないです。
遠足もだいすきだ。
観光旅行もけっこう好き。観光地は観光地になるだけの理由があると感じているのでそれを見に行くのは好きだな。あんまり行かないけど。
そう考えると生きることは旅なのだとおもいました。
2010年8月18日水曜日
絵は言葉だ
絵は言葉だと考えるといろいろすっきりした。
英語、日本語、ロシア語、いろいろある。(言語)
音楽も言葉だ。
描く理由がなくなったと言った人を思い出した。
それは、「描く必要がなくなった」と同じ意味だろうとおもう。大人になりながら別の言葉のほうが上手になったんだとおもう。
言葉がたくさん集まってルールができあがると言語になるのかな。
共通のルールがないよりも、共通のルールの中で言葉を使っていれば情報の伝達効率が高いことは簡単に想像できる。
厳密な人口言語もあれば、原始的で訛りだらけの言語もありそうだ。
歴史が絵を厳密な言語に定義しようとして失敗したように見える。
人の歴史は情報を正確に伝達することに、かなりの労力がそそがれているように思えてきた。
それでも、現代の言語は何かが足りない。たとえば、痛いとか、おいしいとか、程度を伝える事には厳密なルールがない。(単位がない)
それがつまり、名前をつけたいそれなのか。なるほど。
そうやって芸術がうまれてくるのだな。
と勝手に考えてみた。
どうなんだろう?
あと5年くらいでわかるだろうか。
人はなぜ描くのか
ぼくは褒められたいから描くと思っています。
人に聞かれたらそう答えるよういしています。
そしてぼく以外の描く人も各自が自覚する「描く理由」をもっているとおもう。それらは言葉にするとまったく違う事に聞こえるはずだけれども、すべてを説明できるような、統一できるような、もっと根源的な原因があるような気がしてるので、井尻さんにお願いして哲学カフェ「人はなぜ描くのか」をやってみました。
結果ちょびっとだけ核心に近づけました。
一人で考えていても、浅いところをぷかぷかしているだけのような感じがします。それに、参加した皆が一人では到達できない地点を求めていたかどうかは分からないけれど、漠然とそういうような何かを求めていたんだと思う。
だれかが言葉を言うと、ぼくの考えがまとまったりします。
キーワードが集まると前よりも理解したきぶんになりました。
今回はじめて哲学カフェに参加してみて、新たに生まれた疑問は、言葉で考えるのだろうか?ということでした。以前だれかがそんなことを言っていたような気もします。だとすると言語の構造は、思考の過程にものすごく影響を与えることになるから、民族による考え方の違いとかもその事と照らし合わせて調べてみるとおもしろそうです。
それとも、言葉じゃなくてぼけーっと考えている(感じている?)事に近い言葉と出会った時に、考えているという事と考えている内容を自覚できるのだろうか。
ということは、言葉に当てはめる前は考えているというよりも感じていると言った方が近いような気がしてきました。
今、急に繋がったのだけどその、言葉になる以前の感じていること、の中の何かがぼくに絵を描かせているような気がしてきた。それはそれと近い絵になってぼくに見られた時に初めて、それを考えていたという事と、その内容を自覚できるチャンスなのかもしれない。
あるいは、それは自覚されずに最初のきっかけとして働いて、違う絵ができあがるのかもしれない。
ここでいう、「それ」に名前をつけてあげたい。言葉になる前の自覚されていないから考えてるとも言いがたい何かに。
きっとこういうことは、シュタイナーくんとか、誰かとかがすでに考えて発表していることだと思う。
どういう名前をつけたんだろう。
......つまり絵は言葉だ。
2010年8月10日火曜日
きょうの絵日記 -遠足と無限の彼方-
こないだみんなで遠足にいきました。
ひろこちゃんとひでおみちゃんがいっぱいおしゃべりでうるさかったです。
かつおうまかった。あとうみでたくさんおよいだ。
ことしはタイトル戦ではないのだがわたなべくんに勝った。
海水はプールよりも体が浮くのでおよぎやすかった。
棒たおしの棒がみじかいとおもしろかった。
のりひこの顔はつくりやすいことが判明した。
レイニーとはたのがねるときうるさかった。
みんなを帰したあとにしまやんとそうじをした。
ぞうきんがけもした。えらい。
もっといろんなことをしたかったような、これくらいで良いような。
ともだちのいがいな一面をみつけたりもした。
ぼくはうみにぷかぷかうかんで、空をみたり水中をみたりした。
こどものころの感じをおもいだした。
こどものころよりもおよぎがじょうずになってるからくじらまで行くのはかんたんだ。
平磯はビキニギャルが少ないけれど安全でよい。
まだ暴走族がけっこう走っていた。こわい。
みんな生きている。すばらしい。
ぼくのパイ毛は8センチです。
恒例になった、わたなべくんを海にかえす儀式です。
